何かに立ち向かおうしていて、何かから逃げようとしてる。
何かを求めたくて、でも何かを捨てたいと思ってる。


世間で言われてることの何が正しいか、自分の周りの何が正しいかを判断しなさい、疑え、それがかっこいい、なんて、それ自体が洗脳だったりする。
教育は洗脳とも言える。事実を区切って植えつける。


人を傷つけた、なんて傲慢だと毎回思う。
傷つくか、傷つかないかを決めるのは自分だ。相手だって同じ。
傷つけたから自分に制約をかけるのは、正しいとも言えるけど、間違ってるとも言える。
同じ過ちを繰り返さないことは正しいのかもしれないけど、そもそも同じ過ちになるのかなんてわからない。可能性が高いかな、って思うくらい。相手は皆違う。


人は傷ついたって思うから傷つくんだ。
幸せになりたいって本気で願う人は、放っておいたって幸せになるものさ。


自分の中に違う人がいる。そう疑い始めてからおかしくなる。
方向音痴と同じ。正しかったのに、疑い始めてからわからなくなった。


出口なんて無いのかもしれない。それでも、出口はあった。
見つけたい、そこに現れろと思ったから、出口を見つけた。
そんなもの。人の願う力は凄まじい。本気で願うっていうことは、実現させることだ。
描いたストーリーは現実化する。そういう空気を作り出せる、作り出す方向に持っていけるっていうこと。


あたしの中に人が住む。何人も住んでる。そう疑い始めたとき、おかしくなり始める。
記憶が欠けてないか、一日の自分の行動を振り返る。
そのうち、物忘れが、記憶の欠けとして認識され始める。そして、それに怯える。
記憶が無い。
そうやって、頭の中がだんだん壊れていく。人が増え始める。
分裂していく。混乱する。実際に、そうやって取り返しがつかなくなるんだ。


いろんな人を愛せるようになって、愛せなくなって。
ただ季節が巡る。


もううんざりって誰かが言う。でももう少しまともに保てって誰かが返す。
お前は病気なんかじゃない。病気だと思うから病気になるんだと。
思わなければ存在しない。


事実は確かに存在するんだろう。飢えてる人が何人いる、世界には何カ国ある。これは事実らしい。
でも、個人的な「事実」となると変わる。特に自分の場合。
思わなければ現実化しない。傷ついたりなんてしないと思えば、傷つかない。
歪んだと思わなければ、実際歪まない。愛したと思わなければ、記憶なんて作りなおせる。


忘れようとするのが逆効果なら、忘れないようにすればいい。
そのうち消えていく。勘違いだろうと、それはわかってる。


自分がやってることが一体何なのか、わからなくなることがある。
なんでこんなことしてたのか。何をしたかったのか、したいのか。
見失ってる。
だから数学が苦手なんだよ。何を求めたかったのかさえ、忘れてる。


とにかく忘れてしまえ。何も思い出さないように。
朝が来れば、何もかも消えるよ。