ファッション改造中。

109で服とサンダルを買った。全身一式。今どきっぽくなった。ギャル系で。
1時間かからずに衝動買いした。楽しい。


一昨日。埼玉の先生の講演会が授業中にあったんだけど、詩で親子がつながっていくっていうのがテーマで、面白い詩がたくさん載っている冊子が配られた。
笑える詩ばかりで、最初は爆笑だったんだけど、その中に変わった家族の様子をよく書いている子供の詩があって、それを読んでいくうちに辛くなってしまった。


本当に他愛も無い日常。平凡な生活の中でいろんなことが起きて、くだらないことで笑って。
そういう生活を楽しんでいるような家族の描写に、俊ちゃんがいて、あたしがいて、子供がいてっていう画がそのまま重なって、むしろ家の中の「パパ」っていうところに俊ちゃんしかハマらなくて。苦みが辛さに変わった。微笑ましいはずの情景が、あたしの中で悲しみに変わる。
現実的に難しかったかもしれないけど、手に届く距離にあったはずの幸せ。一緒になろうと言ってくれてあんなに嬉しかったのに、捨ててしまった幸せ。家族、子供。
いくら振り払おうとしても、そのイメージが頭を離れてくれなかった。


そして、教師になるということは、自分の子供さえ守りきれなかったあたしが、他人の子供の成長を見ていくということ。見守って育てていかなくてはいけない仕事。
貧乏だって、家庭にいろいろ事情があったって、この世に生まれてきて、育っていける子供たち。何の事情があっても、現に生まれて、そして生きているのに、あたしの子供はどうして?どうしてしまったんだろうっていう思いが胸を締め付ける。
他人の子供を育てるために、あたしは日々学校に行って勉強しているんだ、ということをまざまざと見せ付けられたような気がして。自分の子供も守れないあたしが他人の子供を守る仕事についていいんだろうかとか、どうしようもなく辛くなるんじゃないかとか。いろいろ考えてしまって。
学校、学部を選ぶときは当然考えてもいなかった事態が起きて、よりにもよって教育学部に来てしまったなんて因果だと思った。


小学校教育の授業では、子供がたくさん出てくるビデオを見たり、子供の考えを探ったりして、とにかく子供の立場で物を考えなければいけなかったりする。子供のことを考えるというのが教育の前提だし。逃げられない。
ピアノの授業は授業で、胎教音楽だからと言って悪あがきをするように弾いていたモーツァルトを弾かされる。辛くてしょうがない。
音楽によって自分の体調が良くなって助けられていた分、音楽に触れるだけで思い出してしまうときもある。
ストレスが溜まるのも当たり前か。


教授陣には怒られ、合唱をやれば浮いてしまい、辛いけれど端的にしか言えないから、「モーツァルトを弾きたくない。」と発言してしまって誤解を招く。悪循環かもしれない。
すぐ晒すことのできない事情を抱えると、とても生き難い。